裸形 阿彌陀如來立像 

裸形の阿弥陀仏像として日本五体の一
賢問子作と伝えられ、天智天皇の御生誕にまつわる縁起によって作られた佛様である。
裸形のお姿は変成男子の本願を証したお姿であります。

世にも類い希れなる裸形童容の阿彌陀佛にして、其の御丈三尺餘、名工賢問子の作なり。此の尊像の由来を尋ぬるこそ、げに又となく尊とけれ。今を去る千二百七十餘年の昔、人皇第三十五代に當たり給へる 皇極天皇は御女性にてぞ御座しけるが、未だ 舒明天皇の皇后として在ませし時、御子あらせざりければ常に深く之を嘆き給ひ、はるばる春日の明神を後宮に請来して、日夜に皇子御生誕の御祈請を籠め給ふ程に、神明の加護空しからず程なく御懐妊遊し給ひき。然るに陰陽の博士、僧達、謹んで之を相し以て奏すらく、御生誕の御子は必ず皇女におはすらんとありければ、皇后喜びの中にも嘆を加へての給はく、吾れ嚮きに子を祈りしは、天津日嗣の皇子を得んが為なりき。仰ぎ願わくば神明擁護の力を以て此の皇女を皇子と転ぜしめ給へと。更に三七日の祈願を込め給ひぬ。あはれ之れ程の念誦法楽も今ははや今宵限りぞと更に至誠を捧げ給ふ内に、夜もやうやうに更け渡り、玉燈のかげもさすがに仄かに薄れ行けり。皇后も日頃の御疲れにや覚えず、しばしまどろみ給ふ折しもあれ、春日の明神、皇后の御座近く現はれて告げ奉らく。君が願ひさこそにあらめ、幸なるかな西方阿彌陀佛の四十八願の中に變成男子の大願あり。かゝる願ひこそ彼の阿彌陀佛ぞよけれ吾れ又本地の威力を借り御身代りとなりて彼の佛を勧招し奉らんと、明神親しく西方に向ひ、合掌帰命し奉らるゝに、不思議なるかな光明赫々たる内に裸形童容の阿彌陀佛現はれ給ひ、皇后の御口に入り給ふと覚えて御夢醒めにけり。斯くて少しの悩みもなく御安産遊ばされし皇子こそ後に 天智天皇と名け奉るなり。されば皇后の御感斜めならず、夢中化現の尊像を模し奉り、以て皇子の御守本尊となさばやと思召し、親しく名工賢問子を召して御夢告の儘を語り給ひ、献上せしめられたる御尊像こそ此の裸形の阿彌陀佛にて在します。されば其の後 天地天皇之を御守本尊となし給ひ、其の他 天武天皇 持統天皇等、相ひ次ぎて護持し給ひ、常に後宮に安置し奉りて朝暮の御勤め怠らせ給はざりきとなん。世に安産守護の本尊裸形阿彌陀如來とて霊感殊に験たかなりけり。


 
 

この御像は大変めずらしいもので、裸のお姿、また子供のお姿をされた阿弥陀様であります。其の御丈は三尺あまり(約90センチ)、名工である賢問子というお方が作られたものであります。この御像の由来を尋ぬれば、まことにありがたく尊いものであります。 今を去る千二百七十餘年の昔(西暦の620年頃)、第三十五代の天皇である皇極天皇というお方は女性でありました。その皇極様がいまだ第三十四代舒明天皇の皇后であられた時のことであります。お二人の間には御子息が未だおられず、そのことを后は常に深く嘆いておられ、はるばる春日の明神を後宮に招き入れて、日夜に皇子の御生誕の御祈請を行われておりました。その春日の明神の加護のお陰によって程なくして御懐妊されたのであります。ところが陰陽の博士や僧侶達がその御懐妊の御子について占われ申されることには、「御生誕される御子様は必ず女のお子さまでありましょう。」ということでありました。これを聞いた皇后は、御懐妊のお喜びの中にも、いささか歎きのこころをお持ちになられるようになりました。そして、「私がこれまで、子供の誕生を願い祈ってきたことには、ひとえに天津の皇子として世継ぎの御子が誕生されることを願ってきたのであります。しかしながら、女の子が誕生したならば、その願いが叶ったとは言えません。どうか神様のお力によって此の皇女を皇子と変えてくださいますようお願いいたします。」と再度祈りを込めて更に三七日(二十一日間)の祈願を行われました。そして、その最後の日、「これ程の念誦法楽を捧げた祈りも今ははや今宵限りぞ」と、更にまことなる心でもって祈りを捧げておられまた。しかしその内に夜もだんだんと更け渡り、灯された火々の明かりもしだいにほのかに薄れゆき、日頃の御疲れにさすがの皇后もしばしまどろんでおられた丁度その頃、春日の明神が皇后のお座りになられているすぐそばに現はれて次のような言葉を告げられたのであります。「あなた様の願い、まことにそのとうりでございます。しかし幸にも西方にまします阿弥陀様の四十八願の中には変成男子(女性は男性に変わって極楽に生まれることができる)という大願があります。この願いは西方にまします阿弥陀様の願いではありますが、私が神佛の偉大なるお力をお借りして、あなた様に変わって彼の阿弥陀様をこちらにお迎えして参ります。」と。 そして春日の明神は西の方を向いて合掌し熱心に阿弥陀様に帰依を捧げられますと、不思議にも辺りに光明輝き渡り、その中に裸のお姿で子供の形容をされた阿弥陀様が現われ給ひ、皇后の御口の中に入られたという思いをして、眠りから覚められました。 この奇瑞の後、皇后は少しの悩み苦しみもなく御安産遊ばされました。その皇子こそ後に第三十八代天皇となられる天智天皇のご誕生でありました。皇子様のご誕生を殊更喜ばれた皇后は、夢の中に現れた阿弥陀様のお姿を是非とも尊像としてお作りし、その佛像をお誕生の皇子の御守のご本尊としてお祀りしたいとお考えになられました。直ぐさま当時名工として知られる賢問子を宮中に召きいれ、夢のお告の内容を詳細に語られました。そして後に献上された御尊像こそ此の裸形の阿弥陀佛像であります。 この御尊像は天智天皇の御守本尊として祀られ、さらにその兄弟である天武天皇や持統天皇といった方々の御守本尊として相ひ次いて護持され、常に後宮に安置され朝夕のお勤めを怠ることなくお祀りされておりました。そして現代に於いては、當山轉法輪寺本堂において安産守護のご本尊、裸形の阿弥陀如來として霊験あらたかに今も変わらず我々をお守り下さっておられます。
 ※この縁起書は今より約百年前の明治末期の書であります。天皇家に伝わる御尊像が何故當山に安置されるようになったのかは未だ不明ですが、今後關通上人のお伝記等を見るなかで明らかにしていきたいと考えております。

この記述によれば、天智天皇ご誕生にまつわる因縁によって作られた佛様であるため、これまでにも安産や子宝成就のお守り仏として多くの方がお参りされてきました。