鐘楼門 

日本隨一の鐘楼門
當山の南門は二階に重さ一千貫目(約四トン)もある巨大な梵鐘が吊られた鐘楼門です。
浦島太郎の竜宮城の如きの姿は、近づくにつれてその大きさに驚かされます。

 

楼門と鐘楼が1つになった鐘楼門です。鐘楼門自体は特に珍しいものではありませんが、その多くは寺の周囲の壁と繋がっていますが、當山の鐘楼門は単独の建物となっています。それ故、白い漆喰で塗られた袴部分がよりその存在感を示してくれています。また、これだけ大きな鐘楼門は他に類を見ないものでありましょう。階上に吊られた大梵鐘は普通の鐘楼に吊られていたとしてでも十分に大きなものでありますが、それを階上に吊り上げてあるのですから、鐘楼門自体も巨大な建物となったのでしょう。さて、この鐘楼門。独特の形態であるが故に、大梵鐘の下をくぐり抜けて寺庭に入ります。真下から見上げれば、重さ一千貫目(約四トン)もの釣鐘です。幾分のスリルを味わえます。まさにとある能楽の一幕を思い出させてくれます。

 

樓門階上に懸かる洪鐘は洛陽中有数の名鐘にして、宝暦十四年(1764)畏くも櫻町天皇御菩提の爲に鋳造せらるもの、其の突き初めの盛儀は即心院殿親しく行はせらる、形状を見るに竪の九尺は則ち九界の衆生濟度に擬し、横の四尺二寸は則ち菩薩四十二位の取證に模す、從三位右大辨菅原朝臣在家卿其の鐘銘の中に書して曰く
 夕べに月樓に響き、暁に霜天に鳴る。
 九乳道を得、十方眠て覺す。
と一度打てば鯨音殷々洛中に溢れ、上は以て九項に徹し下は以て八寒に及ぶべし。

 獅子吼山轉輪寺は吉水の嫡流、鎭西正宗の道場にして、專修淨業弘通の導師、關通上人の創建せらる所なり。まづこの上人、賀茂川西三株樹に一つの精廬を構え、法流大いに響き、聲長秋に逹す。  ここに於いて、前の典侍、從三位藤原保の子(法號、即心院巻光慧倫法尼)恭しく奉り、女院の命により屡講筵に列し、遂に專修法門に歸す。  維時、寛延改元の秋、自ら願主となってこの寺にて常行念佛を修せしむ。葢し、奉りて櫻町院冥福の爲と云ひて、乃ち、恭しく奉りて神牌を佛殿に安きて、申命として、永代を以て當に追薦の旨を奉修すべし。因って黄金若于を賜り、以て念佛不退轉の資を充つる。金湯外護の檀越と謂う可きなり。爾来、化縁彌盛んにして、道俗四衆靡然として風に嚮ひ、或いは一朝に薙染出家して来たり止まる者、亦た多からずといえず。  唯だ恨らくは、寺境狹隘にして、以て徒衆を容れるに足らず。故に更に復た斯地を經營す。葢し斯地、歡喜山圓通寺の址にして、しかも寺は舊と西賀茂邑に在り。故有って、近く茲の地に移り、しかも堂宇未だ成ぜず。上人偶之を見て、其の因縁を審にす。以て相國禪寺慈照院に之を請ひて、寶暦丙子の春、遂に其の允許を得て、以て乃ち禪苑を轉じて永く淨業道場と為すと官に告ぐ也。  參州岡崎矢作郷に井上某者有り。父子共に信を三寶に寫し、乃ち淨資を喜捨するを以て新たに興起の基を開く。願主、彌陀如来丈六の尊像を安置して莊嚴美を盡せり。是に於いて、東西兩寺、互いに其の號を易えて、彼を轉じて圓通寺と為し、此を改め轉輪寺と為す。  乃ち洪鐘を鑄る。其の形量、竪九尺は則ち九界の衆生を濟度するに擬らし、横四尺二寸は則ち四十二位の取證を表して、以て法筵の具とす。 其の銘に曰わく。 鳬の功工、成じて新たに法筵に架かる。 夕べに月樓に響き、曉に霜天に鳴る。 九乳道を得て、十方眠て覺す。 清淨允に淑く、俗累那ぞ善を牽かんや。 菩提の大哉、福田の錫、文思は武し。 聖化は偏り無く衆を濟いて度生せしめ、 法流は塞ぎて寶噐を潤し、南山萬年に朽ちず。 寶暦十四年正月十五日  從三位行右大辨菅原朝臣在家  撰併書