関通上人

箱根の関所で、手形による通行往来を見て、
南無阿彌陀佛の符券を持てば、極楽世界の門が開ける。
此土から浄土への関所を通す役目をはたすことを使命とされ、関通と名乗られた。
 
一蓮社向譽上人紫雲介無礙関通大和尚
 
元禄九年(1696)
四月八日生誕
明和七年(1770)
二月二日寂

上人諱は關通、字は無礙、一蓮社向譽と號す、人皇百十三代東山院の御宇、元禄九年四月八日佛降誕の聖日、尾張國海西郡大成(今の海部郡市江村)に生る、天資聰敏、五六歳にして夙に出塵の志あり、常に精舎に遊び好んで沙門の所作をなす、遂に同郡小茂井村專徳寺呉峰に從て受學す、呉峰其の兒の非凡を愛惜し更に海東郡穂保西方寺(今の海部郡中一色圓成寺)照譽亦無靈徹和尚に贈る、和尚は學徳兼備の人、兒を一見して其の大器なるを知り深く鍾愛して慈警を加ふ、寶永五年剃度し元教と號す、時に上人歳十三、此頃同寺所傳の天王尊の像背に「吾をして日本一の出家と爲し給へ」と拜記し、密かに、「道學成就廣濟衆生」を祈誓し給ふ、爾來學業を錬磨し志氣益々遠大なり、寶永八年十六歳の春江戸に遊び、三縁山山下谷洞譽玄達上人の寮に入て螢雪倦まず、寮衆讃呼して小文珠と云ふ、正徳二年十八歳にして増上寺祐天大僧正に就て五重を受得し、享保元年廿一歳の冬詮察大僧正より宗戒両脈を相承し、後又敬首和尚に謁して菩薩戒を重受す上人縁山に學ぶこと既に十三年内外の秘奥に入る、享保八年廿八歳の春故國に歸らんとして途箱根の險嶺を越ゆ、歩々倩ら謂へらく「六趣生死の輪環恰も關の如く、執持名號實に符卷の如しそれ人あつて本願念佛の符卷を持し、西方極樂の都城に到らんと欲するに、道として礙るところ無く、關として通ぜすと云ふ事なし、我願くは終に南無阿彌陀佛の符卷を以て、容易く死關を通ずることを得ん」と、依て即ち名を關通と改む、京に上り祖廟を拜し、次で大和に法輪を轉じ春日の神祠に詣で、特に安倍の文珠に參籠して水穀を斷つ事一七日、更に南海に入って曠原に魔縁を斥け進で遠く九州日向を巡遊す、享保十年伊勢長島光岸寺に住す、いくばくもならずして同國山田越坂の惣通寺に寓し、出でゝは則ち一百日を期し跣足以て両宮に祈願を凝らし、入っては則ち寒林の髑髏七個を庭前に羅列し以て信行の策勵に具ふ、享保十二年卅二歳の春先師照譽上人の遺命否み難く轉じて西方寺を董す、專ら淨業を修すること勇猛雷名遠近に轟き徳化四隣に及ぶ、茲を以て朝暮稱名の聲戸毎に溢れ、魚鳥の行商此の村に鬻がず、里人田間に耕するも珠數を持せざるを愧ぢ、村童戯むるにも泥木を以て佛像を摸し、布衣を以て袈裟に擬し縄を以て百萬遍念佛に準じ、偶々以て殺生する者も上人の名を聞けば飜然として止むに至る、享保二十年西方寺を改めて圓成律寺とし、三州崇福寺義燈比丘を請來して開祖とし、永く念佛持戒の道場たらしむ、爾來上人全く弘法勸化を事とし示寂に至る迄居を定めず、其の教を説くや常に現益祈を排し、無戒邪見を糾彈する事竣烈只管捨世專修の一行を唱導し、兼ねて持戒を勸むる極めて切實なり、爲に同門の遍嫉生じ他宗の迫害加はり、或は國廳に讒訴せられて冤罪に坐し、或は途上に擁害せられんとし給へるが如き法難一再に止まらず、而かも自ら「邪衆の爲に身を亡ぼすは宗祖の尊意、破邪顯正は我が命」として、一難至る毎に弘法反って熾盛を加ふ、明和四年夏頃暫く微恙に惱む、然かも尚弘通を止めず、同七年正月病勢益々進む、事雲上に聞ゆ、時の大聖皇后、忝なくも醫療の恩命を下し給ふ事優渥、上人拜辭して受けず、明和七年正月廿三日諸弟子を集めて最後の垂誡を與へ、同年二月二日京都北野轉法輪寺に怡然として寂し給ふ、時に春秋七十有五、法臘六十三、同二月八日蓮台野に荼毘し、諸所に分骨奉安す。  伏して惟みるに上人の芳躅東西兩都及九州に印し四十有八年の勸奨、一百餘ケ所の弘法、創建並に改修の精舎十有餘、廿五部六十九卷の述作並に改版、得度の僧尼千五百餘人、受戒の道俗三千餘、彌陀尊號の施與二十七萬枚、日課誓約の男女千萬人なりきとぞされば天龍賜紫桂洲賛じて曰く
 衆生歸嚮 如水朝東 有縁度畢  轉輪示終
 四民哀慕 殆與佛同  我経歴劫 賛嘆何窮
と、げに夫れ宜べなる哉。

 轉法輪寺の御開山は、諱を關通、字を無礙と言い、戒名(僧名)は一蓮社向譽上人紫雲介無礙關通大和尚と言います。第百十三代東山天皇の時代、元禄九年(1696)四月八日、當にお釈迦様の御降誕と同じ日、尾張の國海西郡大成(後に海部郡市江村、現在は愛知県愛西市)にお生まれになられます。幼少より才智は鋭くよく物事を理解され、わずか五、六歳の時には早くも俗世間から逃れて出家したいとの志を持たれれました。常に寺に出かけ、僧侶と同じ行動をとっておられました。そして遂には同じ郡の小茂井村(後に立田村、現在は愛西市)にある專徳寺の呉峰上人に仕えて、佛教を学ぶ事となります。ところが呉峰上人はすぐにこの子がたぐいまれなる才能の持ち主であると察し、海東郡稲保にある西方寺(後に寺名を改め圓成寺と号す。海部郡中一色村、現在の愛知県津島市)の照譽亦無霊徹和尚の下で学ばせようとすぐに彼を師の下へ使わせました。この霊徹和尚は学徳の優れた方でありましたので、その子を一目見て大いなる器を感じ、深い愛着心を持って立派な僧侶になるよう育てたいと思われました。そして寶永五年(1708)には髪の毛を剃り落とし正式に出家者となり、元教という名をいただかれました。この時、上人は十三歳でありました。またこの頃、上人はこの寺に伝わっていた天王の尊像の背に「吾れをして日本一の出家と為し給え」と記し、「佛道を学び、その道を成就して多くの人々を救いたい」という願いを密かにお誓いになられました。以来上人は熱心に佛教を学び、より多くの事を学びたいという志は益々高まっていきました。
 寶永八年(1711)、上人十六歳の春、江戸に遊学し三縁山山下谷(増上寺)の洞譽玄逹上人の寮に入って決して飽きることなく勉学に励まれました。寮の同門逹は上人を褒め称えて「小文珠(小さな文珠菩薩)」と呼んでおりました。正徳二年(1712)、上人十八歳の時には増上寺の祐天大僧正より五重を相伝され、さらに享保元年(1716)、二十一歳の冬には、詮察大僧正より浄土宗の宗戒の両血脈を相承、また後には敬首和尚より菩薩戒を重ねて受けられました。このように上人は増上寺において十三年もの間、佛教の様々な教えを学ばれ、その理解は浄土宗教義のみならず諸宗の教えに及んで、皆秘奥に達するほどでありました。
 享保八年(1723)、上人二十八歳の春、故郷に帰る為に箱根の関所を超えられていた。その最中、歩みながらふとある思いを抱かれました。「六道を輪廻して生死を繰り返すことは、あたかも関所を通るようである。阿彌陀様の名前を呼ぶお念佛こそまさに関所を通る為の符券のようであり、人々が阿彌陀様の本願に誓われたお念佛を称えることによって、西方極楽世界への符券を手にして、極楽の都城に到ることを願ったならば、道として妨げるものはなく、関として通ぜずということはない。願わくばその命が尽きるときには南無阿彌陀佛の符券によって、死という関所を容易く通ることが出来ますように。」と。この思いを抱いて後、自らの名を「関通」と改められました。
 その後京都に昇られ、元祖法然上人の祖廟に参籠し、次いで大和(奈良)にて布教活動を行い、春日大社に詣で、特に阿倍の文珠を参籠し、七日間の断食行をおこなわれました。また更に南海(紀州和歌山から四国)に入り、ここでも様々なところで布教活動を続けられ、ついには九州日向(宮崎県)にまで及んでお念仏の教えを広められました。
 享保十年(1725)には伊勢長島(三重県)光岸寺に住しておられたが、程なく同国の山田越坂の惣通寺に住んで、出て行けば百日の間、伊勢神宮に参って素足で祈願を行い、寺に居ては悪行を犯して死んでいったもの逹の髑髏を七個庭先に並べて、自身の修行の励みとされました。
 享保十二年(1727)、上人三十二歳の春、師匠である照譽上人がご逝去され、その遺命によって西方寺の住職として師の跡を継がれることとなります。常に念佛怠ることなく、その決意の固きことは様々な所に知れわたり、その功徳によって教化された者逹は周辺のあらゆる所に及びました。そのお陰でこの地域では、朝夕にお念仏の声が個々の家々より聞こえ、魚や鳥などのなまぐさを売り歩く人もこの地域では商売をせず、村人は田畑を耕している間、手に珠数を持てないことを恥じるほどでありました。また村の子ども達は遊びの中でも泥や木で佛像を形作ったり、布があれば袈裟を模し、繩があれば百万遍念佛の珠数回しをして遊ぶほどでありました。また、残念な縁によって殺生をしてしまった者であっても、関通上人の名を聞けば、心を翻して悔い改めることができました。
 享保二十年(1736)、西方寺という寺の名前を改め「円成律寺」とし、三洲(三河・愛知県東部)にある崇福寺より義燈上人を招き入れて、その寺の開山上人とし、末永く念佛を称えたり、戒律を守ることができるような寺になるようにと願われたのであります。
 これより以降、関通上人は全てを教えを広め人々を教化することに捧げ、命終える時まで住居を定められませんでした。その教化される内容とは、常に目先の現世利益を願うようなことをしりぞけられ、戒律を破ったり、よこしまな考えを述べている者逹を誡める事は非常に激しく厳しいものでありました。ただひたすら世間の俗的な事を捨てて、お念仏一筋に極楽往生を願うことを勧め導き、同じく戒律を守って正しい生活をすることを強い思いで勧められました。しかし、その厳しい教化の為に、同じ浄土宗の僧侶より嫉まれたり、他宗からは迫害され、さらに国の役人に有りもしないことを告げられて事実無根の罪を被せられたり、ときには路上で取り囲まれて危害を加えられたりというような法難が起こったのは一度や二度ではありませんでした。しかし関通上人は、それどころか「よこしまな考えを持つ者のために自らの身を滅ぼすことは宗祖法然上人の御意志であり、よこしまな者を正しい道へ導くことは私の使命である。」と言って、一つ困難が有るたびに、逆にさらに教えが広まり、その勢いも増していったのであります。
 明和四年(1767)の夏頃より、しばらく軽い病気にかかってしまわれます。しかし、関通上人の教化活動は衰えることなく続けられます。そのせいか、明和七年(1770)の正月には病の勢いは益々進みます。そのことが公家などにも伝わり、ついには時の天皇さまより、大変ありがたくも「医療に専念せよ」との恵み深きお言葉をたまわりました。しかし、関通上人はこのお言葉を恐れ多いとして辞退申されました。
 その後同年正月二十三日(宗祖法然上人が遺弟に一枚起請文を残された日)に弟子たちを集め、最後のお教えを与えられ、そして、二月二日、当時京都北野に有った轉法輪寺において往生できる喜びを感じられながら命を終えられたのであります。時に関通上人、七十五歳。僧侶になられてから六十三年の歳でした。二月八日には蓮台野において荼毘に付され、有縁の様々な処に分骨し安置されました。
 振り返って考えますと、関通上人が布教教化されたところは、東西の都(江戸と京都)さらには九州にまで及び、その年月は四十八年にも及んでおりました。百カ所以上もの場所で説法し、新たに創建したり改修したりした寺院の数は十を越え、二十五部六十九巻もの書物を著述並びに改版されました。また関通上人を師匠として得度を受けた僧侶、尼僧の数は一千五百人以上、受戒を受けた人々は三千人以上、南無阿彌陀佛のお名号を記されそれを授與された数は二十七万枚、日々にお念仏をお称えしますとの誓を立てられた男女は一千万人を越えると言われております。
 このことを讃えて天龍寺の桂洲法師が歌を詠まれました。
「諸人が水のように旭のように関通上人を慕っておられましたが、有縁の者逹を全てに教えを授け、教化をここに終えられました。全ての者逹の悲しみは、まさにお釈迦様の御入滅と同じようであります。永い永い年月を経ても、讃歎の思いは盡きることがないでしょう」
いかにももっともなありがたいお歌であります。